適当に庭園紹介-②

• 2009年5月10日

 

 今回は、群馬県甘楽町の大名庭園「楽山園」をご紹介します。この庭園は、E&Gアカデミーの全日制でガーデン設計を担当いただいている高崎先生(高崎設計室)が、平成9年から調査・修復を進めてきた、江戸時代初期の池泉回遊式庭園です。

 群馬県甘楽町は、室町時代末期に小幡氏の領地として栄え、江戸時代初期には、徳川家康から織田信長の次男・信雄に与えられ、その子・信良に分与されました。特に、「楽山園」の周辺は、小幡藩主の屋敷だったので石垣や武家屋敷などが保存されていて、当時の雰囲気を色濃く感じることができます。

 さて、この「楽山園」ですが、1621年(元和7年)から織田信雄により作庭が開始されたと伝えられています。織田信雄といえば、信長の次男でありながら、本能寺の変後、自ら安土城に火をつけたとか、秀吉にたらし込まれて家康を裏切り、結果的に秀吉の天下統一を助けたとか、とかく歴史的には「バカ殿」扱いされています。でも、秀吉も家康も形式的とはいえ、信雄を立てて織田家を存続させ、それなりの禄を与えていることも事実。この「楽山園」も、このような歴史的背景があったからこそ、今に伝えられている訳ですね。
 閑話休題、「楽山園」は、江戸時代後期から明治時代にかけての動乱期に、近隣住民によって相当に荒らされてしまい、茶屋や建物を壊して再利用したり、畑を作ったりしてしまったそうです。恐らく、国内の大名庭園って、大半が同様の運命を辿ってしまったのだと思うと、いかに、当時の日本人にとって「今を生きる」ことが困難であったか偲ばれます。
 そんな状況ですから、10年以上前に復元作業の調査に入った段階では、それこそ「メチャクチャ」だったのでしょうが、現在は、写真のように誠に美しい姿に復元されています。360度見渡す限り、周辺の山々が「借景」として目に飛び込んで来る風景は、都心部では味わうことの出来ない稀有の歴史的資産だと実感しました。現在は、国指定文化財の名勝に認定され、一般公開に向けて順調に整備されているそうです。詳しくは、「楽山園」 のホームページでご確認を。
さて、1621年といえば、大坂の役を経て、豊臣家が滅び、江戸幕府が安定した頃。明智光秀に父・信長を討たれ、家督を継ぐことも叶わず、秀吉と家康に翻弄された信雄が、晩年に残したとされる「楽山園」。どんな思いでこの庭を創ったのか… などと勝手に想像してしまうのでした。
 これ程のお庭を復元された、高崎先生を始め関係者の皆様のご努力には、尊敬の念を禁じえません。貴重な体験をさせていただき、ありがとうございました。